外国為替
専門用語集

OTM

OTM(アウトオブザマネー)は、市場レートが行使価格より低い時の状態をいいます。ドルコール円プット、行使価格100円のオプションで、市場レートが$1=95円であれば、OTM(アウトオブザマネー)となります。 外国為替には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説で「日本で共和制が実施されれば、三井・三菱は大統領となるだろう」と述べたため問題となり、君主制の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた(共和演説事件)。 その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。明治44年(1911年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。徳富蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。 外為は、政府の方針に対する世論の批判をかわす目的で天皇の存在は利用され、天皇を批判する言論は不敬罪として厳重に罰せられたこともあって、天皇批判は影を潜め、「冬の時代」とも称されるようなった。 その後、2度にわたる憲政擁護運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、君主制を自由主義的に解釈する吉野作造の民本主義なども現れた。 しかし、大正14年(1925年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。昭和10年(1935年)、美濃部達吉はそれまで学会で主流だった天皇機関説を主張したことで貴族院で排撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在は大きく利用されることとなった。 FXの後、五・一五事件、二・二六事件を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を大きく利用する。明治憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、政府の方針を無視し満州事変等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、国体明徴宣言を通じて勢力を強めていく。 この頃には、津田左右吉らの日本古代史学者が、神話は歴史事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。その権威が頂点に達したのは太平洋戦争時であり、昭和13年(1938年)の国家総動員法が発令された頃より、軍部により現人神(あらひとがみ)と神格化され、天皇を中心とした戦時国家体制が作られた(皇国史観を参照)。 この時代には、ドイツのナチス政権やイタリアの戦闘者ファッショ政権といったファシズム体制が成立し、日独伊三国同盟が結ばれたことから、この時期の日本の君主制は天皇制ファシズムとも呼ばれている。 昭和天皇(右)とマッカーサーの会見で(1945年9月27日)。この写真を掲載した各新聞は内務省より発禁処分を受けたが、GHQの命令で解除された。第二次世界大戦の終戦後、連合国(UN)の間では、軍国主義の一因として天皇を処罰し、君主制を廃止すべきだという意見が強かった。しかし、日本政府がその維持を強く唱え、ダグラス・マッカーサー元帥、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤として君主制は存続させた。 昭和天皇の戦争責任についても追及すべきとの意見が強くあったが、アメリカの外交方針により、占領当局は追及しないこととした。当時、民間には、天皇をめぐる各種の意見が生じたが、戦前、皇国史観のために被害を受けた津田左右吉なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。他にも、天皇の廃位を唱える見解や昭和天皇の退位と皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする意見も、南原繁・佐々木惣一・中曽根康弘らが唱えたが、一部にすぎなかった。昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、撤回した。 この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも肩の力を抜いた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。 1946年1月1日、新日本建設に関する詔書(人間宣言)が官報により発布された。戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にするため、詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げている[8][9]。1977年8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的である[8][10][11]。この詔書は人間宣言と呼ばれている[12]。しかし、人間宣言はわずか数行で、詔書の6分の1しかない[12]。その数行も、何かを放棄したりしてはおらず、事実確認を行う内容である[12]。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象もよくなった[12]。しかし、日本人にとってあたりまえのことを述べたにすぎなかったため、日本ではこの詔書がセンセーションを巻き起こすようなことはなかった[12]。1946年1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道された[13]。しかし、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、人間宣言にはほとんど触れていない[13]。天皇の神格否定はニュースとしての価値が全くなかったのである[13]。 昭和天皇は人間宣言をした後、日本全国各地への巡幸を始めたが、多大な犠牲者を出した地上戦が行われたうえ、更に日本本土より切り離されて連合軍の直接統治下におかれた当時の沖縄県は対象とされなかった。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、1947年にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。沖縄行幸は昭和天皇の悲願であったようであり、晩年の病に際しそのことに触れられている(昭和天皇#行幸に詳しい)。 日本国外から賓客が来訪することによって、国家元首としての天皇の地位を高めた。1945年以前は、日本を訪問した国家元首はふたりしかいない。1881年(明治14年)、アメリカ合衆国領となる前のハワイ王、そして、1935年(昭和10年)日本の傀儡だった満州国皇帝である。戦後、占領統治の終わりとともに、日本国外の国家元首や賓客が日本を訪れるようになった。1956年(昭和31年)のハイレ・セラシエ・エチオピア皇帝、1957年のジャワハルラール・ネルー・インド大統領、1958年のスカルノ・インドネシア大統領、1960年のアデナウアー・西ドイツ首相の来日があった。以後、他の国々からも賓客がつぎつぎに来日するようになった。[14] 昭和天皇の大葬の礼の際には、世界の163か国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れた。インドは3日間、ブータンでは一か月間喪に服した(日本は2日間)。また、明仁親王の天皇即位の際にも世界各国の国家元首が多く参列に訪れた。 米国のフォード大統領は、昭和天皇の前に立った時には足が震えたというエピソード[15]もある。 一方、昭和天皇は、第二次世界大戦で敵対関係にあった中華人民共和国・オランダ・イギリスや支配下にあった韓国などの一部からは憎悪の対象となった。たとえば昭和天皇がオランダに訪問した際に、一部の人々から抗議活動として火炎瓶等を投げつけられる事があった。しかし今上天皇はそのような憎悪の対象になっておらず、国際的にも敬意を払われており、天皇が海外に訪問する際も激しい抗議が起こることはない。また、天安門事件の時に中華人民共和国が国連の経済制裁で孤立化した時に天皇夫妻の訪中で信用が回復した事があった。