外国為替
専門用語集

D/P為替

荷為替手形の支払人である輸入者が、荷為替取立銀行にたいし、手形金を支払ったときに,手形担保の船積書類を引き渡されること。信用状なしに取り組む普通荷為替の送貨は、この支払渡しを原則とする。 D/Pとは、手形金支払いに対する書類引渡しのこと。 先物取引(1987〜2000年) 通称「SER」。1987年3月に登場した12・14系客車改造の欧風列車の7両編成。スロフ14 705・706、オロ14 711〜715、オロ12715で構成され、オロ14 711・714はリクライニングシートが並び、オロ14 712・713は3.6人用のコンパートメント室になっている。またオロ12 715はサンルーフを新設したイベントカーで赤い車体には大きく「RAINBOW」が白文字で描かれている。 牽引専用電気機関車としてEF65形1019号機(1987〜1998年)・1118号機(1997年〜)、EF81形95号機(1987年〜)が赤い車体に白文字でそれぞれの形式が描かれている。客車が廃車された現在でも寝台・臨時・工臨などで活躍している。このうちEF8195号機に関しては「レインボー」牽引実績は少ない。 FX・西日本・四国・九州(編成を4両に分割し24系25形寝台車「夢空間」3両と併結や14系寝台車との併結)まで遠征実績がある他、1997年9月には多客臨として「さよなら碓氷峠レインボー号」としても、信越本線:横川〜軽井沢(碓氷峠)を走行している。 車両の老朽化や機関車の牽引速度、機回し等で時間と手間がかかるなどの理由により12系和式客車「江戸」とともに2000年3月31日に引退し、暫らく保留車となっていたが、2001年7月15日付で廃車された。 「ノスタルジックビュートレイン」(1990〜1996年) 1990年に登場した50系客車を改造・改装した五能線の観光列車。 オハ50形を改造した眺望客車のオハフ50 2501・25022両と一般型車4両で構成される。眺望車は1989年に土崎工場で改造され、オープンデッキを設けて測窓を大形複層ガラスに取替えた。車内は難燃処理した秋田産天然ナラ材を使用してレトロ調にまとめている。床下にはAU34形冷房装置と電源装置を搭載している。 1991年7月には「アメリカントレイン」に使用していたオニ50 2306・2314をリクライニングシート取付などの改造を施して指定席用車オハ50 3001・3002が登場している。 上記「スーパーエクスプレスレインボー」と同様の理由によりキハ40系眺望気動車「リゾートしらかみ」に置換えられることになり、1996年11月で運転を終了。使用車両のうちオハフ50形2500番台は高崎運転所に転属して、SL列車などのイベント列車に使用されたが、2001年6月に廃車となった。 FX(1995〜2007年) 1995年11月に登場した14系客車改造の和式客車6両編成。12系客車改造の「白樺」の置換え用として登場した。スロフ14形801・802号、オロ14形801〜804号で組成されていた(リニューアル前は増結車としてオハ14形62号もあった)。車号は、同時期に存在しなかったが、旧国鉄の「みやび」と重複する。長野支社が保有、長野総合車両センターに所属していた。2000年に畳の張替えなどを受けたリニューアルと同時に塗装を変更。当初の車体塗装は紺色+ゴールドであったが、塗装変更の際に紺色の部分がワインレッドに変更された。 通れない青函トンネル、関門トンネル対応型となっているので、北海道から九州まで運用できた。そのため、長野地区周辺の団体列車のほか、長野地区〜全国各地、とりわけ特に北海道への団体列車として運転され、日本一行動範囲の広いジョイフルトレインであった。北は網走、南は鹿児島中央までの乗り入れ実績がある。21世紀に入ると、数回ほどD51形498号機によって牽引された「ELSL浪漫」も運転された他、2000年には磐越西線でC57形180号機によって牽引された経歴を持つ。また、24系25型寝台車と併結された状態(浪漫は2〜3両に減車)で運転されたこともある。 編成内容としては、1・6号車は展望車、4号車はサロンカーとなっており、一般客室は掘ごたつ式となっていた他、各車両にテレビモニタが設置され、カラオケを楽しむことができた。 牽引専用機関車は特に無かったが、2006年になってEF64形41号機が中央本線での旧型客車を使用したイベント列車の牽引も兼ねて茶色に変更され、その後は浪漫を頻繁に牽引し、2007年1月に運転された「お座敷浪漫碓氷号」でも牽引機として使用されたことから専用機のような存在となっていた。なお、この「お座敷浪漫碓氷号」が同車の一般営業最後の運転であった。 車両の老朽化のため、485系改造の「彩(いろどり)」に置き換えられ、2007年3月4日をもって引退となった。正式なさよなら運転は行われなかったものの、最後の運用時にはお召し列車牽引機であるEF58形61号機が牽引し、ファンを喜ばせた。その後同月下旬、長野総合車両センターでEF64形42号機とともに廃車・解体となった。 登場した165系電車改造の3両編成。クモハ165-701、モハ164-701、クハ165-701で構成されていた。静岡運転所に所属していた。同年8月3日に運転された「ゆうゆう東海森林浴列車」で営業運転を開始した。 両先頭車は大形曲面ガラスとなっていた。客室設備はハイデッキ構造で2人掛のリクライニングシートで構成。2号車の中央部にはイベントステージが完備され、鉄道車両では初めてボディソニックシステムを採用している。団体のみならず静岡地区の多客臨、晩年にはホームライナーにも運用されていた。しかし、車両の老朽化や団体需要が減ったことにより、1999年11月11日に運転された急行「静岡葵博号」を最後に引退した。 1815年、ベルリン北西のシェーンハウゼンの大地主の貴族(ユンカー)の子として生まれる。1832年にゲッティンゲン大学に入学、翌年ベルリン大学に移り法律を学ぶ。1836年から国家の法律行政に関わる。1838年に退職して軍隊に志願する。1845年にはシェーンハウゼンに戻りビスマルク家の家督を継ぐ。1847年にヨハンナ・フォン・プットカマーと結婚。1849年にプロイセン国会の下院議員に当選する。 1851年、フランクフルトのドイツ連邦議会 (Bundestag) へプロイセン代表として派遣され、ロシア公使・フランス大使を歴任する。こうした経験から、ユンカーの偏狭な精神を脱却して国際的な視野を身につけるに至る。 1862年、新国王ヴィルヘルム1世によってプロイセン王国の首相 (Preussischer Ministerprasident) 兼外相に任命される。この時、ヴィルヘルム1世と議会は兵役期間を2年にするか3年にするかで対立し、ドイツ統一を目標とするヴィルヘルム1世は議会を説得するためにビスマルクを起用したのである。期待に応え、ビスマルクは軍事費の追加予算を議会に認めさせた。この時にビスマルクは、 現在の大問題(=ドイツ統一)は、演説や多数決ではなく、鉄(=大砲)と血(=兵隊)によってこそ解決される Nicht durch Reden oder Majoritatsbeschlusse werden die grosen Fragen der Zeit entschieden, sondern durch Eisen und Blut という演説を行い(鉄血演説)、以後「鉄血宰相」の異名をとるようになった。 鉄血政策を大きく進め、その一方で国際的に良好な関係を作る事に腐心し、イタリア・ロシアに接近し、オーストリアと同盟を結び、同盟関係を背景に1864年にデンマークと争い、勝利してシュレースヴィヒ=ホルシュタインを奪った(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。この時の陸軍参謀総長は(大)モルトケであり、これ以降も政治・外交のビスマルクと参謀総長のモルトケのコンビは、対立しつつも活躍することになる。 対デンマーク戦争に勝利して国民の支持も取り付けたビスマルクは、更に手腕を振るうようになる。デンマークから奪った地域の領有権を巡ってオーストリアと対立すると、入念な準備の上で1866年6月オーストリアに宣戦布告、7週間で勝利する(普墺戦争)。その一方でオーストリアとの講和では寛大なところを見せて、オーストリアの決定的な反感を買わないようにも気を配っている。これによりオーストリア主導のドイツ連邦 (Deutscher Bund) は解消され、ドイツ圏におけるプロイセンの主導権は確たるものとなる。