外国為替
専門用語集

D/A為替

輸入者が外貨で示された為替手形を引き受ける場合、これを自国通貨で換算するときの為替をいう。 D/Aとは、手形の引受けに対する書類引渡しの略語のこと。 外為は普墺戦争の勝利をもとにプロイセンと北ドイツ諸邦を北ドイツ連邦にまとめ上げ、自身は北ドイツ連邦の宰相となって、ドイツ統一への第一歩を踏み出す。そうした状況にフランス皇帝ナポレオン3世は危機感を覚え、プロイセン王家に繋がるレオポルト公のスペイン王位継承問題について、ヴィルヘルム1世に永続性のある保証を要求してきた。ビスマルクはこれを逆用して世論を煽り(エムス電報事件)、1870年7月、フランスをプロイセンに宣戦布告させることに成功した(普仏戦争の開戦)。1ヵ月半後、プロイセン軍はセダンの戦いでナポレオン3世を捕虜とし、フランス第二帝政は崩壊する。年明けにはパリが包囲され、いまだパリ砲撃が続く中の1月18日、プロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ここにドイツ帝国の成立が宣言された。ビスマルクは統一ドイツの初代宰相兼プロイセン首相となり、1890年に引退するまで19年にわたって務めた。 不動産についてはカトリックに対する文化闘争を行い、プロイセン的な社会をドイツ全体に広げるような方針をとった。また当時勢力を拡大していた社会主義者に対する攻撃を強め、ヴィルヘルム1世が狙撃されたのを口実に1878年に社会主義者鎮圧法を制定する。その一方で災害保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度の制度を整備するなど「飴と鞭」政策を採った。彼が打ち立てた社会国家像は、今日に至るまでのドイツの社会政策の基礎となっており、また日本の明治憲法体制にも影響を与えた。 FXにおいては、フランスを屈服させた後はその復讐を予防するため、三帝同盟(1873年)、三国同盟(1882年)、独露再保障条約(1887年)と立て続けに同盟を結ぶ。1877年から1878年にかけて行われた露土戦争の紛争を収拾するためのベルリン会議では「公正な仲裁人」と自称し、全ての国から恨みを買わぬよう仲介役としてのドイツの立場を強調した。 これらの政策の目標は、フランスを孤立させ、それ以外の国との良好な関係を作り、それらの国と親密な関係までは作らないことである。ビスマルクはヨーロッパ列強各国の利害を正確に把握し、これを外交によって操ることでヨーロッパに軽い緊張状態を作り出し、どの国もうかつに動けない状態を作り出そうとした。これがいわゆるビスマルク体制である。このビスマルクの思惑は当たり、ヨーロッパには第一次世界大戦まで続く小康状態が生まれる。 ビスマルク(80歳)1888年、ビスマルクが長年仕えたヴィルヘルム1世が死去する。息子のフリードリヒ3世が跡を継ぐが3ヶ月で死去し、その息子のヴィルヘルム2世が跡を継いだ。この若き皇帝は植民地拡大を望み、また社会主義者鎮圧法の更新に反対してビスマルクとたびたび衝突、ついには1890年にビスマルクを解任した。ビスマルクは領地のハンブルク近郊のフリードリヒスルーに引退し、1898年7月30日に没した。 後にビスマルクを排除したヴィルヘルム2世は、3B政策を推進してイギリスと対立、独露再保障条約の更新を拒否してロシアとも対立した。その結果三国協商が成立し、ドイツ包囲網が形成されることになる。 1865年 ビスマルク=シェーンハウゼン伯。対デンマーク戦争勝利の功などにより伯爵を授爵。 1871年 ビスマルク侯。普仏戦争勝利の功になどにより侯爵に陞爵。 1890年 ラウエンブルク公。政界引退にともない、長年の功績をみとめられ公爵に陞爵。(ただし一代限りの爵位) ビスマルクの石像(ハンブルク)沼に嵌って溺れている友人から助けを求められたところ、銃を向け「その沼は底なし沼なので助けようとすれば二人とも溺れ死んでしまう。せめてもの友情で苦しまないよう一発で殺してやる」と言い放った。驚いた友人は、懸命に泳ぎ自力で沼から這い上がってきたといわれる。この話が実話かどうかは確認されていないが、冷静で計算高く目的のためには荒っぽい手段も辞さないビスマルクの手腕を示す逸話として残っている。 日本の岩倉使節団がプロイセンに訪問したさい、伊藤博文・大久保利通らと会見し、彼らに大きな影響を与えたと言われる。大久保は西郷隆盛に宛てた手紙の中で、ビスマルクとモルトケを「先生」と呼び、その言説と人となりに大きな感銘を受けたことを綴っている。また、プロイセンの憲法を真似た明治憲法を作成した初代総理大臣の伊藤博文は、首相に在任していた頃、常にビスマルクを意識して行動していたため、明治天皇に「お前は東洋のビスマルクを自称しているそうだな」とからかわれている。[要出典] 音楽にも通じ、名文家でもあった。 戦艦ビスマルク: ビスマルクの名を冠した第二次世界大戦時のドイツの戦艦。 ビスマルク諸島: ビスマルクの名を冠したニューギニア島沖にあるパプアニューギニア領の諸島 ビスマーク: ビスマルクの名を冠したアメリカ合衆国の地名。過去にドイツ系移民が多かった。 森下仁丹: 創業間もない1900年に上記のセルフポートレイトをカットにして商標登録し、梅毒薬「毒滅」を販売していた。 気動車改造の3両編成。旧国鉄秋田鉄道管理局が保有していた。秋田車両センターに在籍していた。キロ59 501・502、キロ29 501 で構成されていた。 登場時の愛称は「こまち」であったが、秋田新幹線開通で名前を新幹線に譲り、新幹線の愛称公募で2位だった「おばこ」に改名した。2001年に外観をリニューアルされ普通車扱いとなった(キロ59 → キハ59・キロ29 → キハ29、車番は同じ)。2004年6月以降運用に就かず休車状態であったが、2006年3月に廃車になった。 「エレガンスアッキー」(1985〜1997年) 1985年に登場したキハ28・58形気動車改造の3両編成。愛称は旧国鉄秋田鉄道管理局のマスコットである豹の「アッキー」から由来する。キロ59 503・504、キロ29 502 で構成されていた。 1・2人掛のリクライニングシートを配置された。団臨・多客臨の他、1986年には新幹線連絡急行として運転された実績がある。ディーゼル機関の更新をしたが、老朽化により1997年に廃車された。 「サロンエクスプレス アルカディア」(1987〜1988年) 1987年登場のキハ28・58形気動車改造の3両編成。キロ59 508・509、キロ29 505で構成され、キロ59形はアルファ・コンチネンタルエクスプレスと同形態であった。旧国鉄新潟鉄道管理局→新潟支社が保有していた。 1988年3月30日、上越線越後中里駅〜岩原スキー場前駅間で火災を起こし被災した2両のうちキロ59 508が全焼してしまい除籍。残り2両は盛岡支社に転属し、1992年再改造され、「Kenji」(普通車扱いのため旧車号に復した)として再起した。後継車両は「シルフィード」。 登場したキハ28・58形気動車改造の3両編成。改造にともなう改番はされずJR東日本初の普通車ジョイフルトレインとなった。内装は洋風仕様で、当初は明るい塗装だったが1991年に落着いた外装に変更。多客臨時列車としても活躍したが2001年に廃車。 グラシア「グラシア」(1989〜2003年) 1989年に登場したに登場したキハ28・58形気動車改造の3両編成。キロ59 510・511、キロ29 506 で構成されていた。仙台支社が保有していた。 当初はグリーン車扱だったが普通車扱いに変更(キロ59 → キハ59、キロ29 → キロ59・車番は同じ)。2003年5月を最後に「グラシア」としては引退し同年7月に「こがね」としてリニューアルされる。